新潟中越地震 :ボランティアレポート
11月1日 1日目 長岡市視察
今回のボランティア作業は悲しく辛い作業でした。柏崎市内に入ると屋根の瓦が落ちたりズレたり、道路の陥没や傾斜地における地すべりなど、徐々に震災の被害が目立ってきました。その度に凄い凄いとビックリしていました。11/1夕方に長岡市に到着し長岡駅をはじめ市内の視察をしましたが、電柱は傾き、神社の石鳥居は柱が折れ、祠は傾き、ある家は傾きながら仮り筋交いで倒壊を抑えている。 ある高校が有りました。そこを一つの拠点とし自衛隊のヘリが離発着を繰り返しています。山古志村の避難所でした。長靴やヘルメットの分配でしょうか・・? 普段耳にするヘリの音とは違った音に感じられ、低く響く爆音が恐ろしさを感じさせるのです。 ホテルに戻り休憩中に余震が有りました。震度2程度でしょうか、浜松では体感することがなかなか無いことが、ここでは日常茶飯事に起き、そしてそれに住民は慣れるのでは無く、起きる度に恐怖とストレスの蓄積となっていくのです。
11月2日 2日目(ボランティア初日) 小千谷市にて活動
小千谷市の最大避難所、小千谷市総合体育館脇のボランティアセンター(今も二千人以上が非難している)に向かうにつれ倒壊した木造家屋が目に飛び込んできます。酷く傾いた家や完全に倒壊し元の家の形が想像出来ないくらいの破壊度合いに、ただただ唖然とするばかり、道路のマンホールは液状化により私の膝上まで盛り上がって地盤の悪さを物がたり、追い討ちをかけるように雨が降る・・・ 避難所内を覗いて見れば、何と空気の悪いことか、控え室も授乳室も仕切り壁無い状態、大きな体育館全体が一つのフロアで、ここにダンボールで畳一枚分のスペースを設けての避難所生活、被災者の顔にはストレスと疲労の顔、疲れ切った人々に掛ける言葉も見つからない状況です。
初日のボランティア内容は、避難所回りをし避難所の責任者からの聞き取り調査でした。アイジーの車に災害復旧活動従事車両の看板をつけて、あてにならない地図と地図には記載の無い避難所名リストだけを頼りに市内に出掛けました。避難所の人数は・子供の人数は・要介護者の人数は・お年よりの人数は・困っていること・要望事項は等々の確認と『静岡県の浜松市から来ました。精密耐震診断技術認定者です。心配になる木造住宅は有りませんか?有れば確認して状況を報告させて頂きますが』町内会長さんと思われる年配の男性は『内の公会堂を見てくれ、ブロック塀が傾いていて心配だ』と言います。即確認に行きました。建物被害はそれほどでもないのですが、家具の転倒・茶箪笥の倒壊で中の食器はメチャメチャに割れ足の踏み場も無く危険な状態です。隣の家のブロック塀がよさりかかり多少は傾いていますが、天井裏を覗いてみたりしますが、これならまだ使えると状態だと判断し報告させて頂きました。数件の避難所の聞き取り調査をしボランティアセンターに戻り報告書を提出し初日が終了となりました。本当にこれで私はボランティアとして役に立っているのであろうかと自問自答してみれば疑問でした。もしもボランティアとして作業に選択肢があるのならば、明日は1件の家に入り込み家の片付けや清掃などをさせて頂こうとメンバーと決めて、ホテルに戻りました。
11月3日 3日目(ボランティア2日目) 川口町にて活動
ボランティア2日目が始まります。個人宅に入ろうとしたのですが、木耐協の組織として動いているため、やはり作業は指定されました。内容は最大震度7を記録した川口町に入り応急危険度判定士が各家を調査し危険度に応じて貼っていった張り紙、青・黄・赤(安全・注意・危険)の建物で黄色と赤色の貼り紙の家に住民が入っていないか確認して、もし住民が入っていたら注意して引っ張り出して下さいとのことです。とても辛い仕事です。もしも自分がその建物の主人であったなら他人に自宅に入るなと言われるのですから辛いことです。なかなか言えないのですがソフトに伝えながら回りました。被災者は自暴自気となっていたり悲しみのどん底にあったりしているのです。
【応急危険度判定士による調査結果】
小千谷市の被害も凄かったのですが川口町の被害も私達の予想を遥かに上回っていました。文化財が倒壊寸前であったり由緒ある築200年のお寺の被害や墓苑の墓石がグジャグジャだったり、まさにホゾは抜け通し柱は無残に折れ2階建てが平屋になりペシャンコの建物や車が押しつぶされたり、家が引きちぎられと壊滅的な建物がいくつもあります。豪雪地帯の為に部屋は2階からで1階はガレージやピロティーになっている建物や玄関前が下屋になっていたりと特徴がありますが、ブロック基礎の家も有り基礎の被害も目立ちましたが、土台と柱に驚くほどに白蟻の食害や木材腐朽が目立ちました。又、壁の配置バランスでのねじれや隅角部の耐力壁の存在がどれだけ重要であるか、柱のホゾ抜けや各接合部の弱さが大きな一因であることも納得出来ました。
川口町は被害が小千谷市よりも大きく被災者が、被災以後自宅に戻っていないケースが多く見受けられました。赤色の危険判定された家の屋根の上で住民がシートをかけています。私は『危険ですから降りてください。』と伝えますが降りてくれません。言い訳するのです。『余震がいつくるか分からないですし危険です。降りて下さい。』と伝えるのですが、『明日は、また雨が降るんだ、うるさいんだ』と言われてしまいました。その時に自分は何も言えなかった。また、こんな人も『防災グッズは用意していたけど取り出す余裕なんて無かった』と・・・ 新潟は5時には真っ暗となります。被災者の1人がこんなことを語ってくれました。23日の夕刻に被災し『本震と同時に停電となり真っ暗の状況の中で手探りで逃げました。ゴォーと地鳴りがして、いきなり上に突き上げられたと感じると同時に激しい横揺れに襲われ、ガシャン、パリーンと家具が倒れガラスや食器が割れる音と身体にあたる物が凄かった、外で今まで聞いたことも無いような大きな音、後で分かったが近所の家が倒壊した音であったと、死ぬことが頭を過ぎったと、更に自分の身体が激しい揺れで身動きが出来ないことと視界0という真っ暗だったことが一番怖かった』と回想してくれました。状況が目に浮かんできます。恐ろしい怖いの一言です。 まざまざと自然の驚異、地震の計り知れない力の凄さまじさを感じずにはいられない。
ボランティア活動を通じて感じたこと
ボランティア3日の朝に再び小千谷市のボランティアセンターに木耐協のボランティアのメンバーへの引継ぎに行きました。そこで震度5弱の強い余震に遭遇しました。口では言い表せない揺れの強さを体感しました。半端じゃないです。前日の屋根の上でシート掛けをしていた被災者のことを思い出しながら、私達の郷土は東海地震、震度7が発生すると言われています。どうすればいいのか、果たしてその時に私達はどうなっているのかと考えると行動よりも恐ろしさが先にたってしまいます。
全国各地からの行政の応援やボランティア、外国人の応援、ごった返すボランティアセンターや応援メッセージの寄せ書き、犠牲となって逝った人達はなんと無念であったことだろうか、被災者の数々の思い出を育んだ愛着の我家を失くした人、今でも3万5千人もの非難している被災者のことを想う時、涙が流れとまりませんでした。水道が復旧しても多くの家では、壁の中で水道管が破断しているために壁から水が漏れてくる、ガスの復旧は3ヶ月間は掛ると言うし、積雪は2mにもなる真冬を目前にして厳寒の地での今後の生活はどうなっていくんだろうか、幸いにして倒壊しなかった家でも雪の重さで家がもたないだろう、雨漏り無く安全に生活できる家は少ないだろうに、そんな中でオレオレ詐欺やATM荒らしは許すことが出来ず憤りを感じる、辛いことではあったけれど実際に現場に立ち肌で実感することの出来た貴重な体験は幸せだったと思います。しかしながら被災された多くの人々には被災していない我々にはおよそ、その気持ちは分からないでしょう。阪神大震災の倒壊した写真も凄いと思うけれど、現場で目の前で見るのと写真とでは訴えかけているものが全く違います。その貴重な体験を今後に活かしていきます。
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